二日目の話。

10月25日(水)


15時から長崎平和公園
平和公園は二度とその悲しみを繰り返す事の無いよう
平和を望む願いから作られたそうです。
私たちは平和祈念像の前で集合写真を撮りました。
平和祈念像長崎市被爆10周年記念行事として
広く内外に募金を呼びかけ約3000万円の建設費で4年かけて作られた物で
1955年8/8に完成したそうです。
右手は原爆の恐ろしさ。水平に伸ばした左手は平和を
軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っていることを教えてもらいました。


平和公園にはこの記念像の他に平和の泉や
世界各国から送られた平和のシンボルのモニュメントや慰霊碑が建てられていました。

↑平和の泉
平和の泉は原爆に焼きただれ「水を」「水を」と言ってなくなられた被爆者の霊に捧げるために、
全国から集まった浄財でつくられたそうです。

この写真よーく見ると虹が写っているんだよ。

あと、この平和公園は昔 浦上刑務所っていうのが建っていて
無理矢理連れてこられていた中国人や朝鮮人がいたらしく
その人たちも一緒に被爆してしまったそうです。

そして、爆心地を見てから
長崎原爆資料館へ行きました。
資料館の中には、長崎に落とされた原爆ファットマンの実物大がありました。
長さは3.25メートル 直径1.52メートル 重さ4.5トン
私は、ファットマンを見て。
こんな小さい物が14万人もの人を死へと連れて行ってしまったのかと思い
とても悲しく思いました。
その他にも、頭骸骨の付着した鉄カブト。溶けた6本の瓶。爆心地の付近で見つけられた人間の骨とガラスが高熱のために溶けてくっついている手の骨とガラスを見ました。
被爆者の方の写真はとても痛々しいく、とても目を向ける事ができませんでした。


その後、私は友達と4人で国立長崎原爆死没者追悼平和記念館へと足を運びました。
ここには原子爆弾の投下により亡くなられたすべての方々の冥福を祈るとともに、
永遠の平和を祈る追悼空間がありました。
追悼空間の正面の名簿棚には原爆死没者の氏名を登載した名簿が納められていました。
その棚の中には白紙の紙が5000枚ほど入っているそうです。
それは、爆心地の近くで一瞬にして灰になってしまって。
死が確認できていない人のための紙だそうです。
私はそこで、爆心地の方向を向いて黙祷を捧げてきました。
そして、平和情報コーナーで平和へのメッセージを残してきました。
ここの施設では原爆で亡くなった方の遺影などを見る事もできるそうです。

地下に広がるこの施設の上には噴水?でわ無いけどそのような物があって
夜には光ファイバーによって約7万個の追悼の明かりが灯るようです。
七万個というのは原爆投下後すぐに亡くなった人の数です。
今現在も被爆の後遺症で苦しんでいる人がたくさんいるそうです。
そして、現在原爆によって亡くなった人の数は14万人にものぼるそうです。


みなさんは、どうして長崎と広島に原爆が投下されたか知っていますか?
バスガイドのお姉さんから聞いた話なのですが。
もともと、候補地は、新潟・小倉?・京都・長崎・広島の5箇所だったそうです。
しかし、空襲によって町がごちゃごちゃになっていて原爆を投下してもその威力を見る事ができない場所は中止したそうです。
京都はたくさんの世界遺産級の古い建造物がたくさんあり戦争後のことを考えて中止したそうです。
当初、作戦では新潟の長岡市だったそうですが。天候が悪かったため急遽広島に投下地を変えたそうです。
長崎の時も天候はあまりよくなかったそうですが、一瞬の雲の切れ間から投下したそうです。
私は、本当に怖いなと思いました。
そして、広島に投下されたリトルボーイも長崎に投下されたファットマンも
なぜ投下されなければならなかったのかと思いました。

日本がもっと早くに降伏していれば広島に原爆が落とされる事も無かったし
広島に原爆が落とされて、降伏していれば長崎に原爆が投下される事は無かったからです。


私は、修学旅行の2日目を通して。
自分が今こうして普通に生活している事がなんて幸せな事なんだろうと
改めて感じました。そして、もう二度とこんな悲しい事が起きない事。
世界中が幸せで仲良くいられたらいいのにと心から思いました。


ちょっと家族の顔が見たくなった2日目でした。




↑2日目に泊まった稲佐山のホテルから見た夜景です☆
1億ドルの夜景です〜。。